『セブン』に見る七つの大罪の符号学:現代社会に刻まれた罪と運命の連鎖
『セブン』における七つの大罪という符号が示すもの
デヴィッド・フィンチャー監督の映画『セブン』(原題: Se7en)は、公開から長い年月を経た今もなお、観る者に強烈な印象を残す作品です。この映画は単なる猟奇殺人事件を追う刑事ドラマに留まらず、物語の核心に「七つの大罪」という明確な符号体系を据えることで、人間存在の根源的な罪深さや現代社会の病理、そして登場人物たちの抗いがたい運命を描き出しています。本稿では、『セブン』における七つの大罪が、いかに物語の構造を形成し、登場人物たちの行動や心理、そして衝撃的な結末に影響を与えているのかを、符号学的な視点から考察します。
構造としての「七つの大罪」
映画は、キリスト教におけるカトリックの教義に基づく「七つの大罪」――傲慢 (Pride)、嫉妬 (Envy)、憤怒 (Wrath)、怠惰 (Sloth)、強欲 (Greed)、大食 (Gluttony)、色欲 (Lust)――に則って進行する連続殺人事件を描きます。犯人ジョン・ドウは、これらの罪を犯したと彼がみなす人物たちを、それぞれの罪に対応したおぞましい方法で殺害していきます。
この七つの大罪という枠組みは、単なるプロット装置ではありません。これは作品全体を貫く強固な構造であり、各事件が提示される度に、観客は無意識のうちに次の罪とその犠牲者を予測しようとします。しかし、ジョン・ドウの真の目的は、罪人を裁くこと以上に、自らが「範例」を示すこと、そしてこの現代社会そのものに蔓延する罪を浮き彫りにすることにあります。彼の計画は、七つの大罪を単なる概念ではなく、視覚的かつ物理的に「提示」するための儀式として機能しているのです。
各罪が象徴するものと事件現場の符号
ジョン・ドウが選び出す犠牲者たちは、それぞれの罪の極端な例として描かれています。大食の男性は、大量のスパゲティの中に顔を埋められ、胃が破裂するまで食べさせられます。強欲の弁護士は、自らの肉を切り取らなければ助からない状況に置かれます。怠惰の男性は、一年間ベッドから動かなかった状態で発見されます。
これらの事件現場の描写は、単にグロテスクなだけでなく、それぞれの罪がもたらす自己破壊性や、社会が見過ごしている日常的な罪の恐ろしさを視覚的な符号として提示しています。特に印象的なのは、事件現場に残された文字やオブジェクト、そしてジョン・ドウ自身の周到な準備の痕跡です。これらは犯人の思想や動機を解読するための手がかりであると同時に、彼の行為が単なる衝動的なものではなく、強い意志と哲学に裏打ちされたものであることを示す符号でもあります。図書館での調査シーンで、ジョン・ドウの名前や思想に関する文献が発見されることは、彼の行為が個人的な狂気だけでなく、ある種の思想的な根拠に基づいていること、そしてそれが社会に隠然と存在していることを示唆しています。
登場人物たちの運命と符号の収斂
物語の主人公である二人の刑事、ベテランのサマセットと若手で衝動的なミルズは、この七つの大罪の連鎖に引きずり込まれていきます。当初、彼らは事件を外部のものとして追いますが、物語が進むにつれて、彼ら自身がこの「符号」の一部、あるいは最後の「罪」の担い手となる可能性が示唆されていきます。
特に重要なのは、クライマックスで明らかになる「七つ目の罪」です。ジョン・ドウは、自らを「嫉妬」の罪人とし、ミルズの妻を殺害したことを告白します。そして、ミルズを「憤怒」の罪人として完成させるために、彼の目の前で妻の生首が入った箱を開けさせます。この瞬間、七つの大罪の連鎖は、外部の異常な事件から、主人公自身の内面へと収斂します。ミルズが衝動的にジョン・ドウを射殺することは、彼がまさに犯人の計画通りに「憤怒」の罪を犯したことを意味し、物語の構造が完遂される決定的な符号となります。
サマセット刑事の存在もまた、運命的な符号と捉えることができます。彼は経験から人間の罪深さを見抜いており、絶望と諦念を抱きながらも職務を遂行します。彼がかつて愛する女性を中絶させた過去は、別の形の「罪」あるいは後悔として描かれ、彼の人生に影を落としています。彼の存在は、ジョン・ドウが告発するような明確な罪だけでなく、より曖昧で普遍的な人間の業のようなものを象徴しているのかもしれません。
現代社会という舞台
『セブン』の舞台となる名もなき大都市は、常に雨に覆われ、薄暗く、汚れた場所として描かれています。この荒廃した都市の描写そのものが、ジョン・ドウが指摘する「七つの大罪」が蔓延する現代社会の精神的な荒廃を示す強力な符号となっています。人々は無関心で、互いに隔絶されており、表面的な豊かさの裏で精神的な飢えや堕落が進行しています。ジョン・ドウは、このような社会こそが自らの犯行を可能にし、必要としていると考えているようです。
結論:抗いがたい運命としての符号
『セブン』における七つの大罪という符号は、単なる殺人のモチーフを超え、登場人物たちの運命を決定づけ、現代社会の病理を告発する強力なツールとして機能しています。ジョン・ドウの計画は、一見、彼の意思によって遂行されているように見えますが、物語の終盤では、まるで抗いがたい運命が彼と刑事を引き合わせたかのように描かれます。ミルズが「憤怒」を犯すことは避けられない必然であったかのように提示され、サマセットの絶望的な予感は現実となります。
この映画は、「七つの大罪」という古い宗教的な概念を現代社会に適用することで、人間の本質的な弱さや、社会に潜む罪悪感が、いかに個人の運命を翻弄し、不可避的な悲劇をもたらすのかを深く問いかけています。『セブン』が提示する符号は、観る者自身の内面に潜む罪や社会との関係性を問い直し、単なるエンターテイメントを超えた、示唆に富む考察を促すものと言えるでしょう。