『もののけ姫』における自然と呪いの符号:抗いがたい業と共生の運命
はじめに:『もののけ姫』と運命的な符号
スタジオジブリ作品『もののけ姫』は、単なる冒険活劇や環境保護を訴える物語としてだけでなく、人間と自然の根源的な関わり、そしてそこに横たわる「運命」や「業」といった深遠なテーマを描き出した作品です。本作には、物語の進行や登場人物の運命を暗示し、あるいは規定する、様々な「符号」が散りばめられています。表面的な事象の背後に隠されたこれらの符号を読み解くことは、『もののけ姫』のメッセージやテーマをより深く理解するための鍵となります。
本稿では、『もののけ姫』に登場するいくつかの重要な符号、特にアシタカにかけられた「呪い」、森を司る「シシ神」、そして自然界と人間社会の間で繰り返される「対立と共生」のモチーフに焦点を当て、これらがどのように物語における運命や、人間という存在が背負う「業」を象徴しているのかを考察します。
アシタカの「呪い」が示す抗いがたい運命
物語の冒頭、エミシの隠れ里に住む青年アシタカは、村を襲ったタタリ神(祟り神)を射殺します。この行為により、彼は右腕に不気味な痣(あざ)を負い、それはやがて全身に広がる呪いとなります。この「呪い」こそが、『もののけ姫』における最も直接的な運命の符号と言えるでしょう。
この呪いは単なる肉体的な苦痛をもたらすだけでなく、アシタカを故郷から追放し、未知の世界へと旅立たせる直接的な要因となります。そして、その旅の過程で彼は、森と人間、それぞれの世界の中心的人物であるサンやエボシ御前と出会い、壮絶な争いに巻き込まれていきます。呪いによって与えられた強大な力は、彼を戦闘へと駆り立てる一方で、その力は同時に死へと繋がるものでもあります。
アシタカの呪いは、「憎しみ」や「業」といった、人間社会が抱える普遍的な負の感情や行為が、個人に物理的、あるいは精神的な形で刻印されることの象徴として解釈できます。タタリ神はかつて猪であったものが、人間による森の破壊と鉄砲玉の痛みによって蓄積された「憎しみ」により、恐ろしい姿に変貌しました。アシタカがそのタタリ神を殺すことで呪いを受けたのは、まさに「憎しみの連鎖」あるいは「人間が自然に対して行った行為の反動」といった、「業」の必然的な結果として描かれているのです。
この呪いは、アシタカの運命を規定する一方で、彼に「生きろ」という試練を与え、異なる価値観を持つ世界の仲介者としての役割を担わせます。呪いの痣がうずくたびに高まる腕力は、彼が直面する困難や争いの大きさを反映しており、まさに運命の重さを物理的に可視化した符号と言えるでしょう。彼はこの抗いがたい呪いを受け入れ、それと共に生きる道を探る中で、人間と自然の共生という主題に深く関わっていくことになります。
シシ神の森と生命の循環を示す符号
物語の舞台となるシシ神の森は、精霊や巨大な動物たちが息づく神秘的な場所であり、その中心には「シシ神(デイダラボッチ)」が存在します。シシ神は生命の誕生と死を司る存在として描かれ、その姿や行動は、自然界の抗いがたい摂理や循環の符号として機能します。
シシ神の昼間の姿は鹿のような穏やかな姿ですが、夜になると巨大なデイダラボッチに変身します。この二つの姿は、自然の持つ穏やかさと畏怖すべき力の両面を象徴していると言えます。彼が踏みしめた場所に植物が芽生え、生命力を与える一方で、生命を奪うことも可能です。その存在はまさに生と死、破壊と創造という、自然界における普遍的なサイクルを体現しています。
シシ神の首は、人間にとって不死や富をもたらすと信じられており、エボシ御前率いる人間たちはこれを狙います。首を奪われたシシ神は、黒いドロドロとした不定形の姿となり、森を覆い尽くし、触れたもの全ての生命を奪う破壊の力へと変貌します。これは、自然のバランスが崩された際に現れる、恐ろしくも必然的な「自然の報復」や「破滅」の符号として読み取ることができます。しかし、首が戻った後、シシ神は静かに消滅し、その場には新しい森が芽吹きます。この再生の光景は、自然の生命力が容易には失われないこと、そして死が新たな生へと繋がる循環の符号です。
シシ神は積極的に人間や他の生物に干渉することは少ないですが、物語のクライマックスではアシタカとサンを助け、最終的に首を奪還することで、人間と自然の争いを終わらせる触媒となります。シシ神の存在そのものが、人間が抗うことのできない自然の力、あるいは大きな生命の循環という運命的な流れを象徴しているのです。
対立と共生:繰り返される歴史の符号
『もののけ姫』では、人間(タタラ場の人々)と森の神々(動物たち)の間の激しい対立が中心的に描かれます。人間は生活や繁栄のために森を切り開き、鉄を作り出し、動物たちの住処を奪います。動物たちは森を守るために人間と戦い、憎しみを募らせます。この対立構造は、太古から繰り返されてきた人間の営みと自然環境の関係性を象徴する符号です。
エボシ御前は人間社会の代表として、タタラ場を豊かにし、病に冒された人々や差別に苦しむ女性たちを受け入れる理想郷を作ろうとします。彼女の行動は人間中心主義的な合理性の追求であり、そのために自然を犠牲にすることを厭いません。一方、サンは犬神モロの子として育てられ、自らを「人間ではない」と考え、森を守るために人間を憎み戦います。彼女は自然の一部としての視点を代表しています。
アシタカは、この二つの世界の間に立ち、どちらの立場も理解しようと努めます。彼の「生きろ」「共に生きよう」という言葉は、対立を乗り越え、異なるものが共生することの可能性を示唆しています。物語の結末で、森は一度破壊されますが、新しい芽が吹き始め、人間と動物たちはそれぞれの場所で生きていくことを選びます。これは、完全な融和ではないにせよ、破壊の後に訪れる新しい形の「共生」の始まりを象徴する符号です。
この繰り返される対立と、そこから生まれる新たな関係性の模索は、歴史や文明が辿ってきた道筋そのものを映し出す符号とも言えます。人間は自然を利用し、時に破壊しながら文明を発展させてきましたが、その過程で常に自然との関わり方や、その破壊がもたらす「業」と向き合わざるを得ませんでした。『もののけ姫』は、この普遍的な課題を寓話的に描き出し、観る者に「抗いがたい業の中でいかに共生していくか」という問いを投げかけているのです。
結論:符号が示す『もののけ姫』の多層的な運命観
『もののけ姫』に散りばめられた「呪い」「シシ神」「対立と共生」といった符号は、単なる物語上の装置に留まらず、作品全体のテーマである人間と自然、生と死、そして抗いがたい「運命」や「業」といった概念を深く表現しています。
アシタカの呪いは、個人の運命が大きな時代の流れや、人間社会全体の負の側面と不可分であることを示します。シシ神は、人間を超越した自然の摂理と、その力に対する畏敬を象徴します。そして、人間と動物たちの間の繰り返される対立と共生への模索は、人類が歴史を通じて背負ってきた普遍的な課題としての「業」と、それに対する向き合い方を提示しています。
これらの符号は、『もののけ姫』が描く運命が、単一の不可変なものではなく、個人の選択、社会構造、そして自然界の法則が複雑に絡み合った多層的なものであることを示唆しています。人間は自らの業によって困難な状況(呪い、対立)に直面しますが、同時に、アシタカのようにそれを乗り越え、新しい関係性(共生)を模索する意志を持つことも可能です。
『もののけ姫』の符号を読み解くことは、物語の表面的な筋を追うだけでは見えない、人間存在の根源的な問いや、私たちが現代社会において直面する自然との関係性といった、より深いレベルの考察へと私たちを導いてくれます。作品が公開されてから長い年月が経ちましたが、これらの符号が投げかける問いは、今日においてもなお、私たちの心に深く響き続けているのです。